一昨日の参議院選挙は政権与党の過半数割れという結果になりましたが、改めて参議院の存在理由と責務について考えてみたいと思います。「参議院」という名は、古代律令制下の太政官に由来するもので、「参議」は政務に参与して慎重に議を尽くす官職に与えられた名称でした。戦後、日本国憲法のもとで再構築された議会制度において「参議」の名称が選ばれたのは、衆議院の意思決定に対して熟慮と抑制を担う「良識の府」として位置付けられたことに由来します。そこには、「政治は数ではなく、知と責任で動かすべきである」という民主主義の理念が託されていると言ってもよいでしょう。
今回の参議院選挙では、急進的な言葉や対立構造を煽るポピュリスト政党が議席を伸ばしました。少子高齢化や世代間格差、不安定な雇用や将来の不安といった諸問題に政権与党が十分な対応策を示さない中で、一定数の批判票が集まったとも分析できます。鋭い刺激的なメッセージや即効性を訴える主張は、政治不信が広がる社会において一定の説得力を持ち得たのだと思います。しかし、こうした勢力の伸長が、果たして「参議」の理念に適っていると言えるのでしょうか。
ポピュリズムの台頭は、政治に多様な声をもたらす一方で、対話より断言、検証より扇動が優先されます。それは、参議院が本来果たすべき「良識の府」の機能が感情的な主張や短期的な人気に押し流されてしまう危険性を孕みます。特に財政や外交のような中長期的視野が求められる課題に対しては、「耳ざわりのよい答え」よりも、「不都合な真実と向き合う姿勢」こそが必要です。参議院がその役割を放棄すれば、日本の政治全体が浅薄化するおそれがあります。
ポピュリスト政党の躍進は、政権与党の怠惰と無策に矛先を向け、社会の声なき声を可視化した功績はあると言えます。しかし、その声を立法に結びつける場としての参議院には、やはり「参議」の名にふさわしい品格と言動が求められることもまた事実です。短期的な人気に流されず、民意と理性の接点を模索することこそが成熟した民主主義国家における「第二院」の責務のはずです。選挙のたびに揺れる社会だからこそ、改めて「良識」や「熟慮」といった価値を見失わぬようにしてもらいたいものです。