今から15年前の2010年、上場後間もない会社で売上の大半が架空であったことが判明し、当時の証券市場を震撼させる事件が発生しました。この世間を騒がせたエフオーアイ事件については、その粉飾スキームもさることながら、それを看過していた幹事証券会社や監査法人に厳しい目が向けられたのは当然でした。事件の経緯が詳らかにされる一方で再発防止策が講じられる中、もう誰も同じ轍は踏まないであろうと思われていたにもかかわらず、類似の粉飾は今なお発生し続けています。これは制度の整備や罰則の強化だけでは抑止力にならないことを示しており、その背後にある構造や心理を解き明かす必要があることを物語っています。
前回のコラムで取り上げたオルツ事件のように、急成長中の企業が資金調達や株式上場を意識する中で、売上を「創出する」誘惑にかられるのは珍しいことではありません。人は追い詰められたときに希望的観測を正当化しやすく、経営者は「今期だけ」と自分に言い聞かせて粉飾に手を染めます。さらに、周囲の役職員や関係者も「会社のため」あるいは「自分のため」という身勝手な思い込みで黙認し、あるいは結果として加担してしまいます。つまり、粉飾は倫理的逸脱というよりも集団的浅慮の帰結として発生すると考えるのが良さそうです。
ところで、監査制度の本質は「証拠に基づいた合理的保証の提供」であって、あらゆる不正を見抜くものではありませんし、換言すれば見抜けるものでもないと言えます。また、幹事証券会社やベンチャーキャピタルなどの周辺関係者も、明確な違法性がない限り「そこまで踏み込む立場ではない」として静観する傾向があります。しかし、この「沈黙の合理化」こそが粉飾の温床となるのです。関係者全体が「疑わしきを疑う」姿勢を持たない限り、いくら制度を整えても実効性は脆弱なものに留まる可能性が高いのです。
粉飾決算の再発を防ぐには、制度の再整備や強化だけでなく、「数字に表れない違和感を言葉にできる組織文化」が不可欠だと日頃から考えています。その意味で、内部通報制度を支えるための通報者保護はさらに拡充されるべきでしょうし、幹事証券会社や監査法人も、「上場審査基準を満たしているから大丈夫」とか「監査基準を満たしているから十分」という姿勢ではなく、経営陣の態度や説明姿勢にまで踏み込んで評価する覚悟が問われます。倫理と対話が機能する組織こそが、真に不正を遠ざけることのできる環境なのではないでしょうか。