新名神高速道路を走っていると、どうにも腑に落ちない光景に出合います。鈴鹿トンネルの上り線は、3車線分の幅がありながら、実際に走れるのは2車線です。ほかにも、3車線になったと思えば、また2車線に戻る区間があります。大型トラックが行き交う物流の大動脈だけに、この不自然な車線の増減は、単なる違和感では済みません。現在、4車線で開通した区間を6車線に広げる工事が進められていますが、なぜ最初から完成形で造れなかったのでしょうか。
新名神は、もともと6車線を想定して計画された道路です。しかし、道路公団民営化をめぐる改革の中で建設計画が見直され、一部区間では建設そのものが凍結されました。当時の財政事情や交通需要を踏まえれば、段階的な整備にも理由はあったのでしょう。後から車線を増やすことになったからといって、当時の判断を直ちに誤りとは決めつけられません。ただし、「最初の建設費を抑えること」と「将来まで含めた社会全体の負担を減らすこと」は、全く別の話です。問われるべきは、その時いくら削ったかではなく、最後にいくら払うことになるかです。
供用中の高速道路を広げる工事は、まだ車が走っていない段階で造るのとは条件が違います。交通を確保しながら施工するため、仮設の防護柵などが必要となり、車線規制による利用者への影響も生じます。工事費だけでなく、渋滞で失われる時間や、先送りしている間に人件費・資材費が上昇する可能性まで考えなければ、本当に安く済んだかどうかは分かりません。政治にとって、目先の支出削減は成果として示しやすいものです。しかし、今の支出を10減らした結果、将来30の追加負担を招くのであれば、それは節約ではありません。負担を減らしたのではなく、割高な請求書を後の世代に回しただけです。
これは、新名神だけの問題ではありません。自民党政治に求めたいのは、公共事業予算を「増やすか、削るか」という二者択一から抜け出すことです。何を、いつ、どの規模で造り、維持・更新まで含めていくらかかるのか。そして、その負担を誰が引き受けるのかを見通してこそ、公共事業の是非を論じる意味があります。高速道路の料金徴収期限は、老朽化対策なども含めた財源確保のため、法律上、最長2115年まで延長できることになりました。目先の予算を抑えた結果、将来の負担が膨らんだのでは本末転倒です。新名神の不自然な車線の増減から垣間見えるのは、近視眼的な政治の限界です。政治に求められるのは、「今年いくら削ったか」を競うことではなく、将来の国民に回す請求書にまで責任を持つことなのです。