国際大会の表彰台に掲げられる日の丸、航空機に描かれた日の丸、侍ジャパンやラグビー日本代表のユニフォームに貼付された日の丸。多くの人が、そうした日の丸に自然と敬意を抱いているのではないでしょうか。そのような国旗を損壊する行為を処罰する、いわゆる「国旗損壊罪」を巡る議論が続いています。国家の象徴を侮辱する行為を許してよいのかという問題提起には、一理あるでしょう。国旗は、国の歴史や共同体、先人たちの歩みを象徴する存在だからです。しかし一方で、刑罰によって国旗への敬意を強制することが、本来あるべき姿なのでしょうか。強制されなくとも、国民の誰もが国旗を大切にする国家であることの方が、はるかに重要なのではないでしょうか。
そもそも、人は「処罰されるから尊敬する」のではありません。尊敬とは、本来、自発的に生まれる感情です。政治が公正であり、社会に信頼があり、自らがこの国の一員であることに誇りを持てる時、人は自然と国旗や国歌にも敬意を抱きます。逆に、政治不信や腐敗、不公平感が広がれば、国家の象徴に対する感情も冷えていくのは当然のことです。つまり、国旗への敬意は、その背後にある国家運営そのものへの評価と切り離すことはできません。国旗だけを守ろうとしても、政治そのものが信頼を失っていれば、根本的な解決にはならないのです。
もちろん、だからといって国旗を損壊する行為を肯定するわけではありません。国家の象徴を過激な方法で扱う行為は、多くの人に不快感を与え、社会的対立を深める側面があります。ただ、ここで慎重であるべきなのは、国家への敬意を「処罰によって維持しよう」とし始めた時、表現の自由との境界が急速に曖昧になることです。民主主義とは、本来、国家や政治への異議申し立てをも許容する仕組みだからです。もし国家が、異論の許容よりも統制を優先し始めれば、人々が抱く感情は敬意ではなく、単なる萎縮へと変わっていくでしょう。
結局のところ、国旗への敬意を本当に高めたいのであれば、必要なのは新たな刑罰ではなく、政治への信頼回復なのだと思います。政治家が襟を正し、説明責任を果たし、公正な社会を築こうとする姿勢を示すことこそが何より重要であり、その積み重ねの中で初めて、人々は「この国の一員でありたい」と感じるようになります。国家の象徴は、刑罰で守られる以前に、国民の心の中で守られる存在であるべきです。尊敬は、恐れから生まれるものではありません。それは、信頼できる国家の姿の中で育まれていくものだと思います。