ダム女と京女に同女。筆者の学生時代を振り返って、当時の「合コン」のお相手といえば、この御三家が定番でした。それから半世紀を経た今年4月にダム女(京都ノートルダム女子大学)が来年度以降の学生募集を停止すると発表したことに驚くとともに、時代の変化を痛感せざるを得ませんでした。その一方で、先週9月25日に京女(京都女子大学)は「女子大学宣言」によって共学化しないことを明らかにするとともに、来年度以降、経営学部をはじめ新たに3つの学部を新設すると公表しました。
これまで女子大学は女性に対する高等教育を担い、多くの卒業生を社会に送り出してきました。しかし、今日の若い女性たちはすでに共学の場で力を発揮しており、筆者が教壇に立つ立命館大学大学院の教室も半数は女性が占めています。また、公認会計士や弁護士、医師といった職業専門家の世界でも、新規参入者の3分の1を女性が占めるまでになっていますが、その多くは共学の出身者です。この事実は、女性のキャリア形成が女子大学という特別な教育環境を必要としない段階に達していることを示しています。
それにもかかわらず、京都女子大学が「女子大学宣言」を掲げて新学部を設ける戦略は、時代の流れに逆行しているように映ります。少子化に伴い大学進学者が減少する中で、進学先として選好されるのは共学になっています。とりわけ専門職を志す女性達は、もはや女子大学ではなく、共学の中で競争に晒されながら実力を伸ばす道を選んでいます。女子大学の教育理念がどれほど立派でも、需要構造が変われば存続は難しく、無理に学部を増設しても効果は限定的でしょう。むしろ、教育資源を分散させるだけで、大学自体の経営基盤を危うくしかねないと危惧します。
女子大学の歴史的意義を否定するものではありませんが、もはやその役割は終ったと考えるのが妥当です。女性が専門職として社会に進出する道は共学において十分に開かれており、現実に成果もあがっています。却って女子大学にこだわることは、女性教育を特別扱いする古い発想を温存することになりかねず、時代の要請に適合してるとは思えません。とはいえ、同女(同志社女子大学)はダム女と京女の動きを静観しているようですが、こちらはお隣に共学の同志社大学が控えていますから、女性にとっての選択肢の一つとしての女子大学はありと考えているのかもしれません。